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筆者は塾で小中高生を教えている。老境に入りつつあるデブの男が直面する「現実」というものを伝える。それは子どもを通して見える家族の姿であったり、社会の歪みであったりする。また自分の身体や生活のありさまもまた「現実」だ。「現実」というものを考える人のヒントになればいいと思う。

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  • 01/19/12--20:22: 春遠からじ (chan 1232690)
  • 昨夜、雨が降った。乾ききった大地が水を吸い込んで放つ独特のにおいが充満していた。ああ、これもいいな。あのにおいだな。昔の記憶を懸命によびさましてみた。
     
    夜中も早朝もひどく寒かった。やけに外が静かだなと思ってガラス戸を通してみると外は雪だった。
     
    次から次へ綿のような雪がひっきりなしに灰色の空から降ってくる。風があるんだろう。雪は斜めに流される。舞い上がる。木々や家々の屋根を白く塗り始めたと思ったら雨交じりになった。私はそのころ家を出た。
     
     
    いつもだと敗残日本兵のような防寒帽をかぶる。だがそれは友人の家に置き忘れてきたので、銀行強盗が顔を隠すのに使う黒い毛糸の帽子をかぶった。私にしては物々しい。いずれも人にもらったものだから粗末にできない。しょうがない身につけている。
     
    自転車を走らせていると向かい風がごうと来て急に頭が寒くなった。毛糸の帽子を飛ばされた。仕方なく自転車を回らすと主婦と思しき女性が手にもって小走りにとどけに来てくれた。礼を言って、また自転車を走らせていると、向かい風がごうと来て今度は傘をラッパにされそうになった。間一髪で逃げた。
     
    手袋などしたことがない。でもなぜか今日は指先が痛いほど冷たい。崖の上で黄色い水仙が咲いている。雨中にもかかわらず、かすかながらあたりにも香りが漂っている。
     
    こんな真冬にも水仙は咲くんだな、もう春なんだな、そう感じたが雨はまた雪に変わった。
     

  • 01/20/12--18:58: 放射能循環について (chan 1232690)
  • 放射能の影響というものを考えるとき長い時間のオーダーで考えるしかない。
     
     チェルノブイリでもいいし福島でもいい。放射能に汚染された森の植物について考えてみよう。一本の木はたっぷりと放射能を吸収している。それが秋になって葉を散らす。その葉が微生物によって分解される。土に腐葉土として混ざる。土中の水といっしょになった放射能はまた根から吸い上げられる。
     
    ほかの条件を考慮しないとすれば、葉の放射線量はほぼ同じまま循環するだけだ。
     
    流れのない湖沼を考えてみる。放射能が水中のプランクトンや微粒子に付着する。それは底の汚泥になる。魚が食べる。魚の体内にも蓄積される。魚が死ねば底で分解される。それを別のプランクトンや魚が食べてまた体内に蓄積される。ほかの条件がなければ、放射能はその場所でほぼ一定のまま推移し残り続ける。
     
    ロシアはチェルノブイリの事故以来、湖沼の調査を継続しているが、いまだに線量は横ばいのままである。
     
    海の中を考えてみる。放射性物質は海中にも入る。プランクトンや土砂の微粒子に付着する。重くなったものからどんどん沈んでいく。ゴカイのような海底の生物がそれを食べる。それをまた底魚が食べる。ほかの条件がなければ、ここでも同じことが言える。
     
    しかし、海中に入った放射性物質は絶えず海流や波に流される。どこの海底に降り積もってホットスポットを作るかはわからない。原発沖の海底にはホットスポットがある。だがこれは次第に南に移動しているようだ。ということは広い範囲にわたって海の生物が被害にあうであろうということだ。
     
    今回、新聞報道などで土砂や砕石の汚染が問題になっているが、それに今まで気づかなかったほうがおかしい。地表のあらゆるところに放射性物質は降り積もる。放置しておけば濃度は高くなる。建築資材について線量の基準は今までまったく示されていない。業者も需要があるうちに早く出荷してしまおうと思っただろう。多分に人為的な問題も含まれているだろうと私は考える。
     
    資材問題はともかくとして、窒素や炭素という物質の自然界における循環の構造はかなりの程度分かっている。この物質循環と同じように放射能循環が生態系に組み込まれて起こっていくことが予想される。放射性物質は半減期になれば線量が半減するというだけでなくなるわけではない。半減期はセシウムで30年だがプルトニウムは26千年、ウランだとおよそ7憶年ぐらいになる。こんなものは我々の時間のオーダーで考える限りなくならないものだと考えるしかない。
     
    都市部に降った雨が地表の放射能を集めて河川に入り河口付近にホットスポットを形成するであろうということは容易にわかる。事実、江戸川や荒川の河口付近に異常に線量の高い場所がある。やがてもっと広い範囲で東京湾も汚染されるだろう。河川が集中している限りそうならざるを得ない。やがて、江戸前の魚介類は誰も食べない時代が来るだろう。しかし、こういうことがもっとはっきりするのはこれからだろう。
     
    そして、人体へのゆゆしき健康被害が問題になるとすればさらにもっと後のことだろう。

  • 01/21/12--15:51: 日米同盟はどこへ行く?(146)-工事中止を通告すべし (chan 1232690)
  • 同じ主張を手短に書くことにする。
     
    辺野古の工事中止を米国に通告すべきである。野田政権は大統領選の結果眺めのようだが、そういった時間の徒過に委ねるような態度をすべきではない。それは我が国への信頼を失わせる結果になるばかりか、外交の主体性を鳩山内閣以来著しく欠く姿勢を継続することになる。対外的にもそれを印象付ける結果にしかならない。
     
    アセス評価書には、防衛省みずからがオスプレイの飛行によって基準値以上の低周波騒音がもたらされるだろうと予測している。これだけでも今の情勢では中止を申し入れる十分な理由となるだろう。
     
    この際、日本は、基地原則を明確にしてこれを同時に米国に通告すべきだ。すなわち、住民の反対する基地の新設・移転・改修はこれを行わない。沖縄の基地はすべて撤廃の方向で協議する。基地経費はすべて米国負担とする。これを通告して同盟の今後の新しい在り方を協議する。
     
    これに反対する政府は我が国の政府として認めない。これが私の考えであり、今後いかに妥協したとしても、これしかないと私は考えている。
     
    また、普天間の閉鎖と辺野古移設を交換条件のように扱い工事がなされなければ普天間を使用するしかない、それについては普天間の改修・整備の費用を出せ、平気でそう言ってくる米国になんの義もない。
     
     

  • 01/22/12--18:36: 時局論(49)-一体改革の欺瞞 (chan 1232690)
  • 「社会保障と税の一体改革」なるものを打ち出したのは菅内閣だった。ところが、税の「改革」というのは消費税の増税以外のなにものでもない。社会保障の「改革」とは直接の関係はない。社会保障の「改革」で政府が言ってきたのは、財政悪化の主たる原因は社会保障費にあるからそれを削減しようというものだ。
     
    要するに増税が厳しいから増税の目的を膨らんだ社会保障費のせいにして、増税分は社会保障費にのみ当てるという増税の目的税化を図っただけの話である。
     
    しかもこれが明確になったのはつい最近のことだ。それまでの野田政権は財務省主導で動いていた。財務省は増税にもコストがかかるという考え方だった。増税にともなって増える支出として1%ぐらいは支出増に回そうと考えていた。いったんこれが決まれば、この1%が実際に何に使われるかはわからない。
     
    民主党は中でガタガタやって結局岡田が「コスト分は一般会計の歳入でまかなう」と発表せざるを得ず社会保障の目的税化が決まった。
     
    だが、そうなればなったで、じゃあなぜ10%なんだ?なぜ社会保障費があちこちで削られるようになっているんだ?という社会保障の「改革」なるものの見直しが要求されるようになるはずだ。
     
    民主党政権がこういった動きをするのにはそれなりの理由がある。はじめに増税ありきだからである。増税やむなしと国民の思わせるためにだけ動いてきたからだ。それは菅の増税発言以来一貫している。
     
    国の支出削減には見るべきものはない。公表しても実行できない。そういう状態も続いている。公務員や議員の定数削減も中途半端だ。議員歳費の削減に至っては手もつけられていない。これで民衆の支持を得られるはずがない。
     
    このままでは、野党との協議すら乗り切れないだろう。増税論議は手あかにまみれすぎた。誰かがやらなければならないことだというのはそうだとしても、じゃあやっていいよと言うはずがない。民衆は歓迎しているわけでもなければ賛成しているわけでもない。ただ覚悟しているだけだろう。そういう状況での今の政局はあまりにも民衆の意識との落差の大きさを感じさせるものでしかない。
     

  • 01/23/12--17:20: 雪の朝 (chan 1232690)
  • 鉛色の空から氷雨が降り、雪になる。また雨になる。そういう日が数日続いた。昨夜は帰宅しようとして外を見ると一面の雪だった。
     
    自転車で出たが途中から諦めて自転車を押しながら帰った。雪になったのは夜に入ってからだったろう。あのまま夜間にも降っていればもっと積もっただろうが、私が帰宅するころ、雪は止みかけていた。
     
    今朝は一転して晴れた。青空が見える。しかし、道はアイスリンクのようなところがあちこちにあって自転車は危ない。そこでまた押しながら歩いた。寒いが気持ちいい朝だ。
     
    前のほうで転びそうになっている出勤途中のサラリーマン風の人を多く見た。私も自転車を押しながら何度も滑りそうになった。さすがに車もノロノロ運転だ。こんなことが前にもあったなあと想い出してみるとその時も1月だったような気がする。
     
    私を自転車で追い越して行った若者がいた。黒くなっているタイヤの跡を調子よく走っていたと思ったらハンドルを取られて転びそうになった。路面がむき出しになっているようでも雪解け水がそのまま凍ってツルツルになったところがいくらもある。そこで滑ったのだろう。その若者はその辺の隅に自転車を止めて駅に向かって歩き出した。
     
    ザーザーと雪をスコップでかく音があちこちで聞こえる。だがこのままいけば雪も大方昼過ぎには溶けるだろう。
     
    私の見ているのは都会の雪の朝の光景にすぎない。新聞に雪かきができない空き家が雪の重みで倒壊したという話題が出ていたが、雪下ろしを欠かせない雪国の生活の苦労を私は知らない。雪がすべてを覆い尽くし飲み込み放置すればやがて潰されてしまう『北越雪譜』のような世界があることを知らない。
     
    それはやはり幸運と言うべきなのだろう。

  • 01/24/12--19:09: 都市の残雪 (chan 1232690)
  • 今日は朝からいい天気だ。気持ちがいい。日当りのいい悪いがここまでの違いになるかと思えるような現象がみられる。ビルの谷間の路地には雪がまだ残っている。人々が雪かきをやって積み上げた雪の山がそっくり残っている。東京の下水は溝にどしどし放り込めば溶けて流れていくというようになっていないから雪かきをやってもそれがすぐには処分されない。
     
    雪の後、雨になることが多い。雨が溶かしてくれるからそう心配ない。人々はそう思っているようだ。だがいつもそううまくいくとは限らない。日当りのいい場所の雪は日中の日差しでほとんど溶けたが日当たりの悪い場所の雪は少々の雨でも溶けきらない。これまでの経験では、34センチの雪でも2週間ぐらい溶けないままのところがあった。
     
    今日もそういう場所を自転車で走ってきたが、人々は溶け残った雪をスコップでかいて日当りのいい道路に放り投げていた。それを車が踏み潰していく。そういう光景がいつものように見られた。ここで面白いのは同じ道でも日の当るところと日影が定規で線を引いたように明確になっていることだ。人々は暗いほうにたまった雪をスコップで明るい場所に放り投げている。こういうのはビルの多い都会ならではの風景かもしれない。
     
    少々の雨が降っても固く凍った雪は簡単には溶けない。水をかけて溶かそうとしても、かえって溶けだした雪は夜になって凍ってしまうのでますます路の状態を悪くする。しかも、年明けで遅れている道路工事があちこちで再開されているから足もとの悪いのと言ったらこの上ない。しかも工事現場の誘導警備員で感心するものはほとんどいない、ボサーっと立ちんぼうして歩行者や自転車の往来を妨げていることに気付かない。
     
    ここのところ調子が悪いので朝は少し遅く出てくる。そのつど自転車の道も思いつきで変えている。それでも道路工事の現場にはぶつかる。向こうも区画ごとにやっているからこっちが道を変えてもまたぶつかることもよくある。これもまた都市の風景だろう。
     
    それにしてもいい天気だ。鍋焼きうどんでも食いに行こう。
     

  • 01/25/12--20:59: 信と不信(41)-イエスと親鸞 (chan 1232690)
  • 私のような不信の輩が言うのもおこがましいがイエスと親鸞をそれぞれ一個の人間としてみれば似ているところがあるなと思う。イエスは贖罪を背負った人だし親鸞は弥陀の誓願を唯一の拠り所にしている。すでに神や阿弥陀仏によって約束されているものを信じるしかないんだという態度だ。
     
    二人とも絶対他力であり、しかも自己矛盾の中に生きた人だったのではないかと思われる。
     
    イエスは「わが父は誰ぞ、わが母は誰ぞ」と言った。親鸞も「父母の孝養のため念仏せしことあらず」と言っている。
     
    父母に連なる祖霊を祀るという姿勢はまったくなかった。父母も墓も寺も教団もいらない。しかし、関東の弟子たちははるばる旅をして京都の親鸞のところにやってくる。父母の供養をしてはいけないのか?念仏を唱えていればほんとに何もやらなくていいのか?そういう素朴な疑問を親鸞にぶつけられただろう。
     
    そういう場面で、親鸞は自己矛盾を深く意識し、やがて祖師である自分も絶対他力も師と弟子という関係もすべてを解体していく方向に向かっていったであろうと想像できる。
     
    親鸞は弟子たちに向かって言う。他派の人たちは地獄に行くと言ってるらしいが、ワシだってわからないんだよ。浄土に行くか地獄に行くかなんて。あれこれワシに聞いて納得しようとするのは知のはからいにすぎないんだ。ワシはそういうことを『教行信証』に書いてもう封じ込めたんだよ。もっと知りたければ南都の高僧にでも聞いたらいいだろう。もうワシはお前たちの師匠でもないよ。ワシは弟子がほしいわわけでもない。ただ念仏しかないからやっているだけでその結果地獄に落ちようが浄土に行こうが、それすらいまはどうでもいいんだよ。
     
    こんなことを平気でいったに違いない。これほど恐ろしい言葉は弟子たちにはなかっただろう。しかし、親鸞にしてみれば、お前たちはどうしてそうもわからないんだ。どうしてそのぐらいの場所に立てないんだ!
     
    弥陀の本願だけは確実なもので絶対のものだ。だから称名念仏を続けるしかない。そこに信があるなら、その結果どうなるかなど余計な計らいだ。
    自分を解体して見せてそれを教えるしかない。親鸞はそういう位置まで行ったのだろうと思う。
     

  • 01/26/12--19:01: バカになって深く考え込め (chan 1232690)
  • 厨川白村という文学者で評論家がいた。関東大震災で死んだ。その人が「もっとバカになって深く考え込め」と若い者に言った。この言葉はとてもいい。小利口なやつはたくさんいる。利口ぶったやつも多い。ブログを眺めていただけでそれはわかる。ところが「バカになって深く考え込んでいる」やつはめったにいるもんじゃない。
     
    たとえば、ということで、私自身の経験を話そう。詳細に伝えるわけにはいかないが、「進化の中には退化もあるんだから退化論でもいいじゃないか」と言うのに対して「退化も進化の中に入っている、そんなことは教科書に書いてある」などと得意になって言う人がいる。こういう人は自分の強い問題意識をもってものごとを深く考えている人ではないだろう。
     
    なぜなら、退化論でもいいからだ。教科書では、「進化は必ずしも進歩を意味しない」といったことがご丁寧に必ず書いてある。退化も、たいてい、痕跡器官のところで出てきて、「退化も進化という大きな流れの中に入っている」といった言い方がされる。
     
    しかし、こんな但し書きを必要とする学問とはどういうものなのだ?という最も素朴で核心的な問題意識が執筆者自身にない。ダーウィンの『種の起源』を私もよく読むが、そこにはevolution(「進化」)という用語は見られない。
     
    だったら、ダーウィンがさかんに使った「変異」と言う用語を用いて「変異論」とやったほうがよかった。あるいは、ダーウィンの思想を生かすべく「自然選択論」とやったほうがよかった。
     
    「進化」と言う用語が定着したのは明治期にスペンサーやハックスリーなどダーウィンとは思想の違う人たちの著作がどっと入ってきてみんなが当たり前のように使いだしたにすぎないだろう。
     
    それはさておき、ダーウィンの自然選択説もこれを完全に立証するのは困難だろう。自然自体も変化するからだ。突然変異で生まれたもののなかで自然に適応できるものだけが残っていくという場合、何万年適応できたとしても、その後に消滅するかもしれないという可能性を排除できないからだ。個体としての生物も変化するが自然も変化しつつある。自然は生物の存亡を決定する絶対的基準として何の変化もなしに何億年と同じように存在するわけではない。
     
    進化論を科学じゃないとする立場の人が「進化学」と言ったりする反面「化学進化」とか「宇宙進化」といった言葉が当たり前のように使われる世の中にあって、原子力のことはもちろん、我々は根本的な問題を「バカになって深く考え込む」態度がますます必要だ。
     
     

  • 01/27/12--17:23: 黒船 (chan 1232690)
  • 黒船と言われるペリーの艦隊が日本に来たときは人々の度肝を抜いた。煙突からモクモクと煙を吐いて全身真っ黒な巨大な船を日本人は見たこともなかったからだ。ペリー以前にも帆船の黒船はあった。しかし、江戸までは来なかった。まして蒸気船はできたばかりだ。
     
     でも船体が黒いのは威圧するために黒く塗ったわけではない。防水防腐のためにコールタールピッチを塗ってあったからだ。そんな事とはつゆ知らず、我々の祖先はこんな化け物のような巨船があるのかと腰をぬかし日本中がぐらぐらと来た。見事に米国にしてやられた。
     
     黒船と言えばヴェネチアのゴンドラがそうだがこちらには黒くするのにそれなりも事情があった。ヴェネチア共和国はジェノバなどと並んで遠隔地貿易で富を得た商人たちが作った都市国家だ。ヴェネチアは高い海洋技術と精鋭艦隊をもって地中海の制海権を握っていたが次第にオスマントルコに制海権を奪われることになる。全盛のころのベネチアの艦隊には派手な色を塗った船が使われていたかもしれない。
     
     それは想像でしかないのだが、塩野七生の『イタリア異聞』によればゴンドラが黒船に統一されるまでは様々な色が使われていたらしい。
     
     北イタリアのヴェネチアは運河が多い。ヴェネチア人はこの運河の足になる船底の平板な細身のゴンドラと言う小舟を考えだしタクシーのように使いだした。
     
     16世紀になると、自家用のゴンドラをペルシャ絨毯やビロードの布で飾るようになりまるで満開の花が運河を流れているようだったという。タクシーと自家用を合わせて一万台のゴンドラが往来していたという。
     
     さすがに退潮期に入っていたベネチア共和国の政府は、船体は黒、船室を飾るのも黒ラシャ以外は認めないという通達を出した。それ以来ゴンドラは黒船のままだ。
     
     ゴンドラの漕ぎ手をゴンドリエレと言うが彼らはちょうど江戸の火消しのような人々で荒くれだがきっぷがよく仕事に誇りをもっていたらしい。火消しの出初式のように船の上で人間ピラミッドを作って喜ばせるような人々だったらしい。
     
     観光ガイドなどにペストで死んだひとを悼むため喪の色にしたと書いてあったりするが、そうではなく華美を競う風習に政府が待ったをかけ、倹約のために黒に統一したというのが本当のようだ。
     
     このゴンドラの漕ぎ手、ゴンドリエレを堕落させたのがおそらく戦後入ってきた米国の軽薄な観光客じゃないかと想像される。ゴンドリエレはゲーテが旅をしていたころはタッソーの詩を歌っていた。因みにこのタッソーをゴンドラで歌っているのを聞いてリストが交響詩の着想を得たと言われている。それが戦後軽薄な米国人観光客の注文でわざわざナポリ民謡オーソレミーヨなんかを歌わざるを得なくされた。
     
     

  • 01/28/12--15:17: 日米同盟はどこへ行く?(147)-米国世論に訴える (chan 1232690)
  • 今日もごく簡単に書く。
     
    社民党の議員も交えた沖縄の市民団体が米国に行って辺野古移設反対を表明したという記事が出ていたが、こういうことをもっとやる必要がある。知事の仲井間も行くべきだ。田中のような何もわからない政府の人間といくら話してもらちが明かない。移設に反対する国会議員がもっと米国の議員と接触して運動をする必要があるだろう。
     
     我が国はそういう行動力に劣る。民間使節団を派遣しても向こうは閣僚級の人物など出てこない。でも議員や官僚たちには会える。向こうも情報はほしい。沖縄の反対運動がどの程度のものか、実は、正確には知らないというのが本当だろう。こちらも情報収集ができる。
     
     米国へ行けばマスコミに訴えかける手段もいくらでもある。だが、政党の連中はなかなかそこまでやろうとしない。いつまでも沖縄は米国人にとって遠い場所なのだ。仲井間を先頭に沖縄の県議団を使節として派遣するといったことを何回でもやるべきだろう。
     
     米国は国防費を少なくとも20兆円は減らす。それでいて東アジア太平洋を重点地域として考えるという。オーストラリアに新たな海兵隊の基地も作る。同盟国に負担を押し付けてなおかつ米軍の力を削がないように戦力を維持しようというずるい考え方をしている。
     
     辺野古がなお足踏みすれば普天間を今のまま使用する、ついては基地の改修整備に金を出せ、これが米国の態度だ。日本が急いで工事を強行してもそれはそれでいい、普天間を使いやすいように要望通りに改修するならそれでもいい。米国はそのぐらいにしか考えていないだろう。
     
     今回の抗議団体もこの辺はよく分かっているからオスプレイの普天間配備に反対することを伝えたはずだ。それでもそうした住民の切実な声は今のところ届きそうにない。
     
     普天間閉鎖をクリントンが決断してから15年以上が過ぎている。閉鎖どころかオスプレイなどを配備して海兵隊の機動力を高めようとしている。しかも必要な金はできるだけ日本に出させようとしている。こういう米国のやり方を我々民衆がおとなしく眺めていていいはずがない。