Articles on this Page
- 11/10/11--17:05:_人と経済(59)-...
- 11/11/11--17:39:_雨音
- 11/12/11--15:08:_日米同盟はどこへ...
- 11/13/11--17:03:_飛ばし
- 11/14/11--17:19:_人と技術(14)-...
- 11/15/11--16:32:_時局論(45)-言...
- 11/16/11--17:36:_木枯しの街
- 11/17/11--16:59:_信と不信(36)ー...
- 11/18/11--16:22:_飯食う人々(29)...
- 11/19/11--15:48:_日米同盟はどこへ...
- 11/20/11--17:59:_少年の風景(401)...
- 11/21/11--16:50:_信と不信(38)-...
- 11/22/11--21:08:_白菊
- 11/23/11--17:55:_飯食う人々(30)...
- 11/24/11--17:09:_情勢論( 31...
- 11/25/11--19:29:_検証の盲点(4)-...
- 11/26/11--16:35:_日米同盟はどこへ...
- 11/27/11--19:04:_放射能循環という...
- 11/28/11--17:04:_時局論(45)-大...
- 11/29/11--21:07:_測定の独占と普及...
More Channels
- Feb 23: Recent Posts in 'Next video...'...
- Feb 23: Avvio automatico Novità (Avvio...
- Feb 23: white conservative | Keyword Feed
- Nov 25: Oney po..
- Dec 23: レミオロメン愛満開ブ...
- Nov 25: Richard's Blog
- Nov 25: Ranch Blue Dream - Články
- Nov 25:
- Nov 25: ragtime - GFXartist.com
- Nov 25: Fotoblog ramzes1712
- Nov 25: SCENE - Komentáře
- Nov 25: Reksokata
- Nov 25: welcome to rexxar's site
- Nov 25: Rich Bergeman Photography:...
- Nov 25: Psyche is Psyched
- Dec 8: Siatkówka - Pruszcz Gdański -...
- Nov 25: ::: PuP's ::: Memory :::
- Nov 25: . ...
- Jan 31: Работа в...
- Nov 25: Supachai's Site
- Nov 25: راهِ فاطمه عليها...
- Nov 25: feel LOVED..
- Jan 28: リサイクルショップ...
- Nov 25: RecMeetsTech
- Nov 25: انسان مداری
- Jan 24: rrr-reiko's meeting spot
- Nov 25: Nessie - Články
- Nov 25: Reuben!
- Nov 25: U r about to Open PANDORA's Box
- Nov 25: My Site
- Nov 25: Pijar Idea
- Nov 25: Creative Print Head
- Nov 25: This isn't Hollywood
- Feb 22: Psych Central News » Research
- Nov 25: Nungrutai's Site
- Nov 25: ★PuPaE★'s Site
- Nov 25: YOU MAKE EACH DAY, SWEETER....
- Nov 25: Cerita Dari Hati
- Nov 25: ina's Site
- Dec 18: Работа в области...
- Nov 25: Sprint Cup Discussion
- Feb 3: University Radio Hilo
- Feb 6: و حالا، زنده ام تا...
- Nov 25: کرسی های...
- Nov 25: anonimity
- Nov 25: r0nAkEra
- Nov 25: Fotoblog ravian
- Nov 25: RD's Site
- Feb 19: AOL Real Estate - Blog
- Nov 25: AOL Real Estate - Blog
|
|
Are you the publisher? Claim this channel |
|
Channel Description:
Latest Articles in this Channel:
- 11/10/11--17:05: 人と経済(59)-長いものには巻かれろ (chan 1232690)
- 11/12/11--15:08: 日米同盟はどこへ行く?(136)ー怒りの島 (chan 1232690)
- 11/14/11--17:19: 人と技術(14)-スマホ (chan 1232690)
- 11/15/11--16:32: 時局論(45)-言ったか言わないか (chan 1232690)
- 11/17/11--16:59: 信と不信(36)ーただの人 (chan 1232690)
- 11/18/11--16:22: 飯食う人々(29)-鍋の風景 (chan 1232690)
- 11/19/11--15:48: 日米同盟はどこへ行く?(137)-アジアの新安保 (chan 1232690)
- 11/20/11--17:59: 少年の風景(401)-職人の技 (chan 1232690)
- 11/21/11--16:50: 信と不信(38)-オウム裁判 (chan 1232690)
- 11/23/11--17:55: 飯食う人々(30)-売り場の憂鬱 (chan 1232690)
- 11/24/11--17:09: 情勢論( 31 )欧州の危機と現代資本主義 (chan 1232690)
- 11/25/11--19:29: 検証の盲点(4)-非常用復水器 (chan 1232690)
- 11/26/11--16:35: 日米同盟はどこへ行く?(138)-地位協定 (chan 1232690)
- 11/27/11--19:04: 放射能循環というテーマ (chan 1232690)
- 11/28/11--17:04: 時局論(45)-大阪都構想 (chan 1232690)
- 11/29/11--21:07: 測定の独占と普及(2) (chan 1232690)
野田がTPPの参加表明を一日延ばしたと新聞に出ていた。なかなかポーズのうまい男だ。FTAにしろEPAにしろアジアの流れは経済協力・関税撤廃の方向にある。この流れは変えようがない。日本が国益を追求しようとするならば、自ら期限を切って「バスに乗り遅れるな」とばかりあわてて参加するようなものではない。
先の日米首脳会談で普天間の遅れの埋め合わせをするかのようにオバマにいくつかの約束をした。それを忠実に実行するような動きを野田はやっている。ほんとうに国益を考えているのか疑問だ。米国はアジアの市場開拓に思ったほどの効果を上げていない。ドル安が継続している割にアジアへの輸出は伸びていない。雇用も経済成長も思ったようにいかない。アジアの成長を取り込みたい米国は日本の参加をのどから手が出るほど望んでいる。
そもそもTPPなるものはシンガポールやブルネイなどの小国が作った協定に始まっている。それを米国が環太平洋の貿易ルールに広げようとしてきた。この貿易ルールにやがては中国も加わらざるをえないように仕向けたいのだ。現存するASEANで米国が主導権をとることはできない。それでTPPをてこにしてアジア市場に入っていきたいという思惑がある。日本がその先導役をはたしてほしい、これが米国の願望だろう。
しかし、中国、韓国、インドネシアといった日本と取引が多い国々はTPP交渉には今のところ参加していない。日本がいまどうしてあわてて参加する必要があるのか、これらの国々を除外して日本がTPPに参加することはこの点からもバランスを欠くではないか、そういう意見が出てくるのはもっともなことではないだろうか。
野田らは、交渉はこれからで米国の言う通りにするわけじゃない、と逃げるが、明らかに見えてくるのはサービス産業での米国の攻勢だろう。かつて大店法の規制緩和で商店街がシャッター通りになってしまった経験をもっと反省しないといけない。これまでの日米交渉は物だった。繊維・鉄鋼・車・牛肉・オレンジ・チェリー・米…といった物だった。だが、今回は物だけじゃない。物なら米以外は何とかなってきた面はある。グレープフルーツ・アメリカンチェリー・オレンジなどはむしろ安くしないと売れない。日本の産地のミカンやサクランボをやや高めでも買っている。
米国もそんなことはわかっている。今回の米国の日本向け市場の目玉はサービス部門だろう。サービスや社会の仕組みにはこれまで触れられずにきた。そこをこじ開けて市場開拓しようというねらいがあることは間違いない。保険や医療が入ってきて日本社会の制度を壊しかねないことを懸念する声は大きい。
そんなことは交渉次第でこれからのことだ、と政権側は言うが、戦後の日米交渉史を見ればそんなもんじゃない。たしかにこれまでもそういう米国の要求はあった。しかしなんとかしのいできた。しかし、米国が強く要求をしてきたものは、最後は押し切られている。今回、野田がオバマと約束にしことを三つに絞るとすれば、普天間移転の加速・TPPへの参加・米国産牛肉の輸入規制緩和だ。これらはすべて普天間問題の「遅れ」から出ている。日本は何ら要求も主張もしていない。
こういった程度の交渉力で米国が要求する保険や医療などのサービス部門の規制緩和に抗しきれるはずがないだろう。
寺田寅彦の随筆『備忘録』に次のような文章があった。
「来そうな夕立がいつまでも来ない。12時も過ぎて床に入って寝る。夜中に霈然たる雨の音で目がさめる。およそこの人生で一文の金もかからず、無条件に理屈なしに楽しいものがあるとすればおそらくこのときの雨の音などがその一つでなければならない。」
私はこの言い方に無条件に同意できる。
夏の夕立もいい。裸になって歩きたいぐらいだ。その夕立が来そうでなかなか来ない。来ない方がいいじゃないか、という気にもなるが、来なければ来ないで気がもめる。もう来ないものと思って布団に入る。とたんにザーとやってくる。とてもガラス戸を開けられない。雨音だけを聞いている。人の気持ちなど頓着しない自然の気まぐれの痛快さ、来るものが来たといった満足、そういうものが入り混じった愉快がある。
そうはいっても、物事には程度がある。寝床に入った途端の地震だの津波だのというのは御免こうむる。
こういうことは夏場の夕立だけの話ではないだろう。時雨についても同じようなことはいえる。日中降る通り雨のような時雨もあれば夜降り出して朝にはあがっている時雨もある。私の経験からいえば冬の雨は静かな雨が多い。寝床に入って耳を澄ましとはじめて聞こえてくる雨音がある。それは淋しいものだが暗くは感じない。外気は厳しい寒さだが自分は布団の温もりを楽しんでいる。そこから来るものかもしれない。
いやいや、それだけじゃない。それは人生のさびしさに通じる。さびしくはあるが、音だけでもう名作なのだ。そのものさびしげな名作を楽しんでいるような何とも言えない喜びというものがあるのだ。
かつて石原莞爾は次のような趣旨のことを言った。
戦争犯罪者を強いて挙げればそれは私とトルーマンだろう。東條など何か役割を果たせるような男ではない。私は腹を切ってもいいが残虐な原爆を投下したトルーマンを放ってはおけまい。
この考えは今でも正しい。米国が満州事変までさかのぼって裁こうとすれば石原の存在を無視できない。満州国の建国とその後の中国大陸への「侵略」のきっかけを作ったのは石原の作戦だった。
また、トルーマンが大統領としての判断で、反対の声を押し切って、日本に原爆を投下したことも紛れもない事実だ。東條は処刑されトルーマンは裁かれなかった。一億日本人はただただこれに沈黙したのである。この戦後史の出発点こそ奇怪なものだったと私は今でも思っている。
日本に進駐した米軍が沖縄で何をやったか?このことも我々はよく知らなければならない。普天間基地は住民をキャンプに収容しながら住民の土地を強奪しブルドーザーで根こそぎなぎ倒して飛行場にしたところだ。これは「ハーグ陸戦条規」にすら反する非道な行為だった。しかもラムズフェルドも認めていたように「世界一危険な飛行場」だった。そこで米兵による少女暴行事件が起こった。
沖縄は怒り狂いその声はもちろん米国に届いた。それでクリントン大統領が普天間の閉鎖と返還を向こう五~七年間のうちに実行すると言ったのだ。それからもう15年以上が徒過した。その発表で代替基地の建設を交換条件とするなどということは言われていない。まして辺野古のへの字も出てこない。
その後、沖縄海兵隊のグァム移転が米軍再編の一環として位置づけられると海兵隊のヘリポート建設が話題になりそれがあたかも交換条件であったかのごとく扱われるようになった。そして候補地として辺野古の名が登場したにすぎない。
私の意見では、辺野古の米国海兵隊訓練基地の建設は日本の義務でも何でもない。今や米軍再編もさらに再編を余儀なくされている。米軍も上院軍事委もそうである以上何も辺野古にこだわる必要はないということを認めている。
沖縄の問題は我々の問題である。沖縄を政府が説得するかどうかといったごとき問題ではない。戦後65年たった今日、沖縄の長期の基地負担は解消されねばならない。辺野古案は拒絶するべし。基地の新設移転は住民の同意なくして行わない。すべての米軍基地を縮小撤廃の方向において考える。基地経費はすべて米国負担とする。私は繰り返し主張する。この基地三原則を今こそ世界に向かって公表しこれを我が国の基本的立場とすべきで機会だ。
「飛ばし」という言葉がある。人を飛ばすのではなく、損失を飛ばす。そうしたからと言って損失がなくなるわけじゃない。損失をロンダリングするだけだ。オリンパスで行われた粉飾決算はそういうものだったろう。
報道などで伝えられるものではよくその手口がわからない。今しかるべき機関が調査中のことだから無理もない。きわめて複雑だ。10年以上にわたって隠し続けるには複雑化して見えないように仕組まなければならない。そのうち帳簿上も信用上も問題にならなくなるところまでもっていくということしかない。
損失をロンダリングしても自分たちがもうかるわけじゃない。帳簿のつじつまを合わせて犯罪とみなされないようにすればいい。当座の決算を乗り切ればあとは何とかなるだろうという安易な考えがあっただろう。
そもそも、「飛ばし」はバブルの時に、財テクに走った企業が有価証券でおおきな含み損を出し、これが公表されることを恐れた企業が一時しのぎに子会社などに損失をつけ代えることを言った。その際、暴落した時価で売ったわけじゃなく、取得時の価格に近い価格で売却したことにしたはずだ。
しかし、いくら子会社でもわざわざ暴落している有価証券を高い値で買うはずがない。いつまでにかならずその価格で買い戻すといったような約束になっている。でもそういう子会社がなかったらどうする?子会社なりファンドなりを自分たちで作ってしまおうということになる。
そのためにベンチャー企業を買収した。法外な買収金額を支払った。損失を出した有価証券を引き受けるのにその金が使われただろうと推測できる。いっぺんにやったらわかってしまうので少しずつ分けて買わせたのではないか。高額な買収であっても会社の将来を買ったということにすれば犯罪にはならない。もちろんそこにはもっと複雑な仕組みをこしらえておいただろう。だが単純化すれば私はそう推測している。
もしそうだとすれば、そんなことをメーカーのオリンパスが思いつくはずがない。知恵を貸している証券会社の人間はいる。そいつが大損を出した有価証券を会社に買わせたやつだろう。
そういった人的なからみと手口の実態を単純明快に公表する義務がマスコミにはある。調査中ということもあるだろうが、ここ数日、オリンパスのニュースはパタッと途絶えた。
ちかごろ「スマート」が耳ざわりだ。「スマートグリッド」「スマートメーター」「スマートコミュニティー」「スマートハウス」「スマートフォン」…うるさい。
もともと米国の電気業界から出て言葉だ。だから発電した電気を需要供給のバランスを考えて送電する電力網を「スマートグリッド」と称し、消費者の需給を瞬時につかむメーターを「スマートメーター」と称したのは我慢できるとして、電機関係の会社案内などに何でもスマートをつけたようなものを見ると愉快じゃない。
「スマートフォン」が「スマホ」と略されみんなが当たり前のように言っているのを聞く。私は「スマホ」をもってない。だから愉快じゃないのかというとそうではない。持ちたいとも思わないのだ。では外国由来のネーミングを冠したやり方が好きじゃないのかと言えばそうだと言うしかない。
「スマート」と冠した多くのものが新しい技術かあるいは新しい技術に裏打ちされた新しい製品であるかのように装っているが果たしてそうなのか?電力を「創る」「配る」「省く」という三つの側面で見たとき、「創る」方は、いま自然エネルギーをどう効率よく電気にするかといった大きな技術的問題をかかえている。配る方が「スマートグリッド」という技術で今はまだ実証実験の段階だろう。「省く」方は、蓄電池や急速充電器やさまざまな省エネモジュールがある。
「スマート」を冠したものはこれまでの技術を組み合わせたものだとも言える。「スマートメーター」はこれまでの電力計に通信機能を付けたものだし「スマートフォン」だってこれまでの携帯に大容量の動画や情報を取り込めるようにしたものだと言ってもいいだろう。
それで我々の生活が大きく変化するのだろうか?こと私に限って言えば、変化しない。太陽光パネルや「スマートメーター」のついた部屋で、外から電源を入れたり風呂を沸かしたりするように携帯で操作するような生活は想像できない。そういう生活を快適だと思うような人もいるだろうが、私はそんなものを快適だとは考えない。そんなことをする必要などないし煩わしくていけない。
携帯は20年以上前から使っているが、そんなものに時間をとられることはない。メールだって限られた人としかやらない。だからしょっちゅう充電切れを起こしていることに気がつかないでいる。それでも何の支障もない。誰かに迷惑をかけるほどのこともない。
歩きながら指先を巧みに動かしながら片手でメールを打っている「名人」を見たが、ああいう人たちは「スマホ」ではできないだろう。かがみこんで両手を使って操作するしかないだろう。これでもかこれでもかと送られる情報を消費するのに人は一日どのくらいの時間を奪われているものか?それは私にはわからない。奪われていると感じない人も多いのだろう。
過剰な情報や娯楽は私にとってなんの益ももたらさない。それらを楽しんでいる人たちから見れば私は「生きた化石」だろう。しかし、私は今のところそれでいいと思っている。
TPPをめぐる野田の発言について「言った言わない」ですでに米国に一本取られた。これは首脳会談について「すべての品目とサービス分野を貿易自由化の交渉テーブルに乗せるとの野田首相の発言を歓迎した」というコメントに端を発する。
そういう発言を野田はしていないという。政府はそこで修正を米国に申し入れた。ところが、昨年菅首相が発表した政府の基本方針として「重要品目に配慮しつつ、全品目を交渉の対象にする」というのがあり、それに野田が言及してこの方針に基づいて経済連携をやるという内容の発言をしている。だったら、すべての品目とサービス分野になるじゃないか、と米国は応じて修正の必要を認めなかった。
ここでもう一本取られている。野田がなんと言おうと昨年の政府の基本方針なるものに自ら言及してそれを是とすれば、米国の発表した通りになってしまうことは明らかだろう。
「重要品目に配慮しつつ」なる文言などどうにでも向こうに都合よく受け取られてしまう。米国に文書を見せるなら「我が国にとって重要な品目のいくつかを除きすべての品目を交渉の対象にする」といったはっきりした書き方をしないといけない。
基本方針などと言っても実態は官僚の作文だ。彼らの頭では、重要品目は除くが向こうがあくまでも強く交渉を求めたら考慮せざるを得ないだろうというニュアンスがすでに出てしまっている。
そもそもTPPなるものが全品目を交渉のテーブルにのせるという趣旨だから「除く」という表現は使いづらいというのはわかるが、そこを米国につかれた格好になったのは理の当然である。
それにしても、「野田首相の発言」と決めつける向こうのやり方が誠実でないことは明らかだ。修正を申し込むなどといった後ろ向きのやり方じゃなく、国内で米国の不誠実について大いに議論し、日本政府の新しい基本方針を早く打ち出せばいい。それに野党も協力したらいい。
TPPの趣旨からいってはじめから「除外」品目を特定してかかることはできないが、国内向けの基本方針にそれを盛り込めば米国の知るところとなるのは当然だ。それでも日本の参加は他の国々の参加を促す働きはするだろうから米国も参加そのものの拒絶はできないだろう。
野田は、立ち上がりに強烈な張り手も食らったようなものだが、一向に動じる気配はない。交渉に自信があることを見せているのかもしれないが、牛肉や自動車のような品目で市場開放をちらつかせてきた。こんなことは今に始まったことじゃないが、こと牛肉に関してはBSEであれだけ騒がれた背景があるのだから簡単に妥協できない。むしろ今後の交渉の切り札として活用すべきものと位置づけるべきだ。
もう一枚の切り札は中国やロシアや韓国との経済連携をこの際大いに深めることだろう。
山茶花山茶花咲いた道 焚き火だ焚き火だ落ち葉焚き
あたろうかあたろうよ しもやけお手てがもうかゆい
木枯らし木枯らし寒い道 焚き火だ焚き火だ落ち葉焚き
あたろうかあたろうよ相談しながら歩いてる
かわいらしい歌だなと思う。私のような糞餓鬼だったものでもこんなかわいらしい歌を歌っていた記憶がないわけじゃない。朝の登校時に焚き火に当たったことも覚えている。
いま私の住んでいるあたりにも山茶花の並木はある。だが焚き火をやる人はいない。禁じられているからだ。この時期は天気がいいのに木枯らしが吹く。私は自転車に乗って散走している。正面から木枯らしがヒューヒュー吹き付ける。だが背中は太陽を浴びて暖かい。私はそれに満足する。正面は木枯らし背中は日差し、これがちょうどいい。何かイソップ寓話の『北風と太陽』の旅人にでもなったかのような気分だ。
今朝から木枯らしが吹いている。硝子戸から外のポプラを眺めた。「イタリアヤマナラシ」という種類のポプラだ。葉を落とすのが早い。もうすっかり網の目のような枯れ枝になっている。枝は紡錘形をなすように上部に集まる。そこに枯葉はまだ少しくっついている。これも木枯らしにすっかり吹き払われるだろうと思うが、なかなかどうして「最後の一葉」になるまではしぶとい。「最後の一葉」になってからこれが吹き飛ばされるのにまた数日はかかる。毎年12月に入ってからだ。
ポプラは葉をつけるのは遅いが葉を散らすのは早い。最近気づいたことは落ち葉だけじゃなく落ち枝が多いということだ。そんなことを誰かに話して笑われたことがあったか、これはまちがいない。やはり老木に多い現象だ。北大のポプラ並木というのは全国的に有名だが、あそこはほとんどが老木で落ち枝が多いようだ。原因はいろいろ考えられるだろうが、私は枯枝病にやられているんじゃないかと思う。北大のポプラ並木は道の両側に密集している。そこで「進入禁止」になった。
私の部屋のガラス戸を通して見えるポプラも老木だ。その下を通った時目の前で小枝が落ちるのを目撃したことがある。けっこう大きな音がしたがあんなものは当たってもたいしたことはない。だが年をとればからだが傷んでくるのは植物も人と同じだ。
ポプラはてっぺんに枯葉を残す。人はてっぺんから禿げる。そこは少しちがうかもしれない。
親鸞は自分を非僧非俗といった。流刑になって僧籍剥奪されたことをあてこすったいうことじゃないだろう。僧でもなく俗でもないなら何ものでもないということだ。寺も墓もいらない、自分が死んだら加茂川の魚に食わせろと言った人だから、自分を非僧非俗というのは当然だろう。
彼は真宗の開祖であり祖師であるわけだが比類のない思想家であったという気がする。流刑を許されても京都に戻らず関東で布教したが、同時に『教行信証』をこつこつ書いている。
彼は「はからい」を捨てよと教えるが一方で浄土論の理論的構築という作業に取り組んでいた。それこそ「はからい」でなくて何だろう。『教行信証』は死後見出されたが、彼は知的「はからい」をやりながら同時にそれを捨てるという営みを延々と続けていたにちがいない。
だが彼は教祖なのだ。人々に信を語らねばならない。衆生一人残らず浄土に生まれ替わらせるという弥陀の誓願を説くべき人だった。南無阿弥陀仏という六字名号を唱えればいいんだよと人々に教える人だった。奥さんと子どもと普通に暮らす人だった。それを関東の人々は見て信じた。
弥陀の誓願はイエスというメシアの贖罪の思想ににているがすべての教えを六字名号にせんじつめたという点で画期的だった。
念仏しかないからそれをやっているんだよ。その結果、地獄に落ちようが知ったこっちゃないよ。そんなことをいう人の下からは異端が続々と出てくるのも事実だろう。信も不信も渦巻いていただろう。『歎異抄』が出る前も後も親鸞を取り巻く世界とはそういうものだったろうと思う。
私には、親鸞という人は宗教を思想家のように語り、思想を宗教家のように実践した人物のように思える。その精神はどこにも安住しない絶対否定の境涯にあっただろう。
こう寒くなってくると鍋をやりたくなる。最近、クリーム鍋やショウガ鍋が人気だなどと雑誌に書いてあった。牛乳鍋や豆乳鍋はあった。むかし京都で牛乳の鍋が出てきて驚いたことがあった。今ではたいていのものが出てきても驚かない。それにしても鍋の風景は革命的に変化した。
クリーム鍋などというのも若い人にはいいのかもしれないが私は遠慮したい。ショウガ鍋の方はショウガの入れ方が問題だ。針ショウガにして加えるのが普通だろう。私も白菜鍋にしたときはよく針ショウガを入れる。薄切りロースを白菜の間に挟むようにして入れそこに針ショウガを入れる。どうも白菜は味がしみにくいのでそうするんだが、なかなか薄切りロースでは鴨鍋のようには味が白菜に伝わらない。でもポン酢で食べるとまあまあうまい。
ところで雑誌の写真ではすりおろしたショウガを上にどっとかかっている。私はいつもポン酢にすりおろしたショウガを入れて食べている。鍋の具の上にドッとすりおろしたショウガをかけるというのは思いもよらなかった。何らかのたれにとって食べるんだろうがこれでは舌がひりひりするだろう。
あるいは、ショウガを鍋の汁の中にとき入れてしまうのかもしれない。みぞれやしぐれは大根でよくやるが、ドバッとおろしたのをかけてしまうのは冬場はどうなんだろう。寒々した感じになってしまう。芭蕉をもじると「寄せ鍋やブタも小簑をほしげなり」という図になってしまう。ショウガはショウキョウ(生姜)という漢方薬の原料になる。あくまで薬味として用いるべきものだろうという気がする。
ショウガのみぞれ鍋のような珍妙な鍋が出てくるのはショウガブームのせいかもしれない。私の経験では、針ショウガを鍋に入れて食べるだけで口の中がヒリヒリしてくる。そこで大量の大根おろしをすっておく。唐辛子のペーストを買ってきてもみじおろしも少し作っておく。このおろしをちょこちょこポン酢に入れながら味を調節する。こんなことをやったりアサツキを多めに切っておいてドバッとたれに入れたりして食べてみる。そんな工夫が鍋の楽しみ方の一つだろう。
あとは残ったものにご飯を入れて雑炊にするか、うどんなどを入れて食べきるかという問題になる。
あいかわらず同じことを言うしか能がない。ただ世界情勢は大きく変化している。地球規模の米軍再編ということは以前から言われていたが、米国がアジアの安全保障に出張ってきた。豪州のダーウィンに海兵隊を常駐させるようだ。中国を刺激するということで控えていたことを敢えてやり始めた。それが新たなアジアの緊張を生まないとは言い切れない。
米国はこの計画は普天間とは関係ないと言っているが、そんなはずはない。普天間問題と沖縄海兵隊のグァム移転は10年以上も前の米軍再編の計画に沿って動いてきた。今度のアジア新安保の米軍再編によれば海兵隊のヘリ部隊の訓練など豪州でやればいい。豪州の基地を借りた方がずっといい。沖縄のサンゴ礁を埋め立てて滑走路を造る必要性などますます小さくなった。
米国は実に欲が深い。南シナ海の危機に対応するもので朝鮮半島の危機などに対応する沖縄とは別だと言うにきまっているが別ではない。財政事情の悪い米国が海兵隊をこのために増強できるはずがない。沖縄に駐留する海兵隊の一部はダーウィンに行くだろう。グァム移転を決めたかつての米軍再編がいまや更なる再編を迫られている。にもかかわらず、辺野古の滑走路は、それはそれで確保しようとしている。財政事情でできにくいことを同盟国の負担で切り抜けようとしている。
沖縄県議会はオスプレイの配備に反対決議をした。また環境アセスの評価書の年内提出を見直せという決議もやっている。通常ならこれが沖縄の民意とみなされていい。したがってこの問題は国会で議論されていいしまた政府から辺野古の見直しの声が上がっていいはずだ。
しかし政府にはそんな気配がまったくない。世間には本気でやるつもりがあるのか?形だけ米国の手前やっているようにしているのか?これを疑う声もある。
経済的にはアジア太平洋の貿易圏はいやでも拡大するだろう。この情勢は日本にとってけっして悪いことではない。しかし、この動きが野田の思っているように、米国的秩序の土俵に中国を上らせることになるとは限らない。
畳替え時期なのだろう。職人を遊ばせていけないので何か仕事はないか、と電話があった。あいにく私のところには仕事はなかった。「遊ばせておけない」というのはよくわかる。職人は金にならなくとも仕事を続けないと腕が鈍る。
少年のころは畳替えの手伝いをやらされてものだ。トンと叩いて畳をさっと持ち上げる。「必殺畳返し」だ。部屋中に床に散布されていた消毒薬がプーンとにおう。外の台で畳表を張り替える。太い針とこれまた恐ろしげな包丁が使われる。ヘリを新しくする時の縫いの作業がこれまた面白い。手や肘や全身を使って太い針で縫っていく。そして糸をギューっと締める。新しい畳はイグサのいい香りがした。
人が衣替えするように年の区切りに畳替えをする。もちろん天気のいい日じゃないとできない。そんなことも子供の行事と同じで何かが改まったような不思議な気がしたものだ。
汽車通学していた中学のころの話だが、駅から家へ帰る通りに商店の中に混じって職人の店があった。店というより作業場といったほうがいい。一つは大八車やリヤカーを作っていた。もう一つは飯櫃や桶を作っていた。畳屋もあったかもしれないが覚えていない。通りから作業を眺めるのが面白かった。
「大八車」はいつのまにか鍬や鋤など農具に変わった。この作業も見事だった。小さな桶を作っていた店の方は大きな醤油樽のようなものを作り出した。板を金具で組んで丸く仕上げていくところは圧巻の眺めだった。
東京に引っ越して数年後に訪ねてみると二軒とも店はなくなっていた。あの職人たちはどうしているのか?知る由もなかった。
オウム裁判は終結したが、わたしには終わったという感じがしない。地下鉄サリンが唯一の無期懲役囚林によって事前に全面自白されなければ事件の全容は解明されたかどうかわからない。それほど警察も公調も無能だった。公調はオウム事件で予算が復活し破防法適用を主張したが裁判で負けた。その代り団体規制法の観察処分を更新させながらなくてもいいような組織を生きながらえさせている。国松長官射殺未遂事件も解決できず迷宮入りした。多くの情報が寄せられながら事件を解決できなかった捜査当局の問題はいつの間にか忘れ去られている。
オウムにはまだ二つの組織が残っている。「アレフ」と「ひかりの輪」だ。これらが依然として危険な団体かどうかはだれがどこで判断できるのだろう?もし、ヨガ道場に通う普通の人々を危険人物として公調が付け回したとすればそれは信教の自由にも反する行為だろう。
裁判所は首謀者を死刑にすべく手続きを急いだ。松本被告の死刑は一審で確定した。控訴の期限に間に合わなかったという理由だ。この是非は問わないとしても、明らかにされるべきことが明らかにされていないという感がぬぐえない。最高裁はほとんどが上告棄却であるし、判決文もみんな同じように事件の重大性と反社会性を指摘している。
金と人があればどんな組織でも組織防衛のためには人殺しもするだろうと言った教訓ではしょうがない。松本という特異な人物の性格にすべてを帰すこともできない。大きな事件が起きる前に信者の中にどうして不信が拡大しなかったのか?
教義は仏教や密教からの寄せ集めだが、そこに神秘体験を説いて解脱への修行の階梯と階級を組織に持ち込んだ。ヨガ修行の多くの一般信者はその階段を上へ上へと昇っていくことだけが問題だったのだろう。すでに解脱したと見なされた幹部の連中は自分たちが作ってきた組織を絶対化してこれを攻撃から防衛するという態度をとった。
はじめは財産を処分して教団にそれを布施し退路を断って入ってきた。だから他者にもそれを当然として強要するようになっていった。組織が共犯性を帯びるに従ってもう後に戻れないという意識が強くなる。信者がまったく何も知らなかったというのはあり得ない。
はじめヨガ道場だった組織がやがて犯罪集団に落ちるまでに何があったのか?抑制する力がはたらかなかったのはどうしてか?そういう問題をかつて信者だったもの自らが明らかにするべき課題として残されているだろう。
団地の4階から下の畑を見下ろしてぼんやりと思った。あそこに白菊の一叢があるな。和菊の白菊はやはりいいな。野に群生する白菊はもっといい。それを棺の中に入れてやるのがいいだろう。
漱石が「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」と句作したが、あれは野の白菊じゃないといけない。業者が用意した洋菊じゃだめだ。祭壇をああいう菊で波打ったように飾るやり方もよくない。ありったけの野菊を投げ入れてやればいいんだ、それも白菊がいい。
今年私の教え子が妻子を残しまだ40代で病死した。エリートコースを自らきらって長く海外青年協力隊に加わって世界のあちこちに行った反骨の男だった。ここ数年は予備校の講師をやっていた。自分の経験を若いものによく伝えたことだろう。
今年の震災でも春秋に富む多くの若者が死んだ。新聞を読んでいたら文科省が「復興教育」に予算を付けたといった話が出ていた。復興教育とは恐れ入った。なんと言おうといいが、義務教育はおそらくすべて復興教育だろう。
私は戦後復興の中で育った人間だ。そういうものからすれば、いまの震災復興はある奇妙な側面を感じさせる。戦後復興は燃える物などすべて燃えて廃墟の中のバラックから始まったと言っていい。
今の被災地は、がれきが野積みにされ人も建物も失われた荒涼たる荒野のような風景が広がっている。バラックでも何でもいいから人の息遣いが感じられる場所であればいいがそうなってはいない。人は整然と避難所で暮らし、仮設住宅にひっそりと送られた。これをもって復興などと言うまい。
専門家と称する者たちが暖かい部屋で議論し、政治家がああでもないこうでもないと下らんおしゃべりをしてやっと予算が決まる。地方自治体の役人たちは、「国が決まらんとどうにもならんのです。自粛してください、自粛してください」などと同じような文句を繰り返すだけだ。どうしてそうなんだ?どうしてそうじゃないといけなんだ?どうして国が何か決めるまで待ってないといけないんだ?
かつて私の記憶にある風景は、川の斜面も鉄道の高架下もありとあらゆる場所にバラックがある風景だった。人々は生きて暮らさなければならない。これは一部の不幸な人々だけの問題じゃない。
ところが、現実は、いち早く解決すべきことが先送り先送りされている。どうしてそうなってしまうのか、この政治経済学こそまず教えられなければならない。
われわれが築いてきた文明など何かあれば脆いものであり、われわれに希望を与えたと称する科学の館が人々にとんでもない災厄をもたらす「パンドラの匣」だったという文明学が教えられなければならない。
そして、復興と言い条人々の生活のなんたるかを知らない連中によって国が左右されているという権力学が教えられなければならない。
昨夜、夕方から暇だったのでスーパーに行って鮮魚売り場を見てみた。宮城県産の生ガキのパックがあった。安くても300円はする。それが150円と手書きで書いてある。みんな買わないのだろう。カニもずいぶん置いてあったが、ロシア産やアメリカ産が多い。手足の肉が見えるように加工してある。ツルっと引っ張り出してすぐ食べられるようになっている。そういうものを鍋に入れて食べている人が多いのかもしれない。
カニと言えば、親戚の人が転勤で福井に行った時においしいものがたくさんありますから送ります、と言われて期待していたが何十年となにも届かない。代わりに、まったく別の人から松葉ガニが送られてきたことがあった。
松の葉が敷いてあるところにマツバとセコがペアで入っている。獲れにくくなっていると書いてあった。こういうものはその場でできるだけ早く食べるに如かず。新聞紙を広げてひたすら食べる。噛んで、引っぺがして、引っ張って、啜って…まことに乱暴な所業になる。あっという間に残骸の山ができる。
礼状を出してじつにおいしかったと書いたら翌年も送ってきてくれた。また、噛んで、引っぺがして、引っ張って、啜って…と殺人鬼のような所業をやらかして、もう今回限りにしてください、自分にはぜいたくなものですと令状に添えた。
カニを正面から見るとちょこんと小さな眼が二つ付いている。この表情が何とも愛嬌がある。それで甲羅を机の上に数日置いて供養がてら眺めたこともあった。カニもここ二年は食べていない。切り分けて身がすぐ取れるようになってるものなどは買う気がしない。
鮮魚を見たらかならず青果にいく。東北・北関東の野菜はほとんどお目にかからなくなった。この前、水菜があったから茨城のものかと思ったら産地は東京となっていた。青果について言えば、県名を表示してあっても、それだけで安全かどうかなどわからない。そんなことは汚染マップを眺めてみればわかることだ。
線量を計測して回っている人たちの話によると原発直近ほど線量が少ないそうだ。これも考えてみれば当然だろう。放射能は風や気流に乗って移動するものだ。直近に滞留する量は多くない。作物に影響する土壌の問題になるともっと複雑だ。水の流れも無視できない。森を通って流れてくる水を利用している場所では高濃度になる場合がある。それがこの前の福島産米の基準値オーバーになった。
安全なんだろうが安全でないものも混じっているかもしれない。君子危うきに近寄らず、これが消費者の態度とすればそれを責めることもできない。野菜売り場の産地名を見ながらしばし立ち尽くす主婦の姿をよく見る。原発事故の深刻さを今更ながら感じる場面だ。
放射能雲が地表を覆ってこの世界を不透明な世界に変えてしまった。これは震災の直撃に劣らず重大かつ深刻な被害を人々に及ぼしている。人々はあらゆる風説に疑心暗鬼し人が人を信じられない世界に入り込んでいる。
EU加盟国でもないハンガリーが財政危機に陥ってIMFとEUに支援を要請している。ハンガリーの通貨フォリントが下落しそれに加えて国債の金利が上昇し財政の危機にひんしている。これもリーマンショック以来の世界的な金融危機に端を発した問題だ。このときIMFとEUから借金した。この返済計画が欧州危機による影響を受けて思い通りにいかなかったことが理由だろう。それでふたたびIMFとEUに支援を求めたというわけだ。
ルーマニアもハンガリーと同様の危機にある。旧東欧諸国はほとんどが財政危機にある。これらの国々はEUの足を引っ張っている。それも米国が引き起こしたリーマンショックから継続している。
戦後、顕著な傾向として認めなければならないのは肥大化した金融資本と国家の度を越した経済への介入だろう。
それはまず銀行への資本注入を公的支援と称して開始した。それが当たり前になると銀行以外の大企業にまで国家の金が注入された。米国はビッグスリーに、日本は日航に金を入れた。どうしてそんなことができるんだ?どうして倒産しそうな中小企業に貸してやらないんだ?こういう疑問が愚かに思えるほどそうした事態が続いてきたのだ。
政府は、信用を回復するために、景気を立て直すためにと金融を緩和した。それで企業は金を借りやすくなった。しかし設備投資に及び腰の企業よりヘッジファンドのようなものがその金をたくさん利用した。為替や株や債権の市場に投機的な金が大量に流れ込んで政府の力ではどうにもならなくなる。
国債もまた格付けされ債券市場で値が上下する。それによって財政危機は瞬く間に深刻化する。国家財政がすでに債券市場に組み込まれているとさえいえる。だから信用不安が国債に及べば財政の破綻は坂を転げ落ちるように早い。
円高ユーロ安が起きる。金や原油などの資源が高騰する。たとえば、ハンガリーのフォリントなど誰も見向きもしない。どんどん売られて下落する。ハンガリーの国債も誰も買わない。評価が低くなり高い金利をつけないと買う人がいない。外国資本がどんどん逃げていく。EU加盟国ではない欧州の国々にはこういうことが起こっている。
戦後資本主義においては、各国が経済成長に利するべく経済過程への政府の政策的関与を限りなく深めてきた。その結果、金融資本が肥大化し、投機マネーが世界市場を席巻することになった。立場の弱い国々はあっという間に財政危機に瀕した。翻って国内においては人々の間に格差と貧困を顕著にさせた。
これを何とかしようとする政策的介入もまた同時に行われてきたが、結果はますます格差と貧困の拡大にしかならなかった。これは資本主義の経済においては避けられないことなのだろうか?その通りである。これは資本主義の終焉を意味するのだろうか?その通りである。
ただ救命装置を体中に付けた化け物になっているからそうは見えないで延命しているだけのことだ。EUというのもこの救命装置の一つと言える。EUという実験は欧州統合による市場拡大策だ。このおかげでドイツも車や家電などをどんどん赤字国に売ることができた。いまさら、赤字国や非加盟国は相手にしないよとは言えない。
「ユーロ圏共同債」なるものも一つの延命策だ。このいわばEU債のようなものに切り替えれば欧州の赤字国は好都合だがドイツは尻拭いのためにまたまた資金を拠出しないといけない。だからドイツはこれに反対している。
だが、延命策とはこうしたものだろう。われわれが生きている世界は資本主義の腐朽過程である。種々の延命策を施されて化け物のようになったからだを引きずって歩いている。
今度の事故のカギになるものは循環冷却の思想だ。緊急停止しても水が海水で冷やされながら循環していれば間違いはないという思想に立って設計されている。しかしその水を回すのは電気だ。電源が喪失すればいくら循環冷却などといっても間に合わない。そこで非常用復水器が付いている。
ただこれは福島第一原発の1号機にしか付いていない。メーカーが安心させるためにくっつけたただのお飾りじゃないのか。そんな疑問が出てきてもおかしくない。
原子炉で発生した蒸気を配管で冷却水の中を通しまた水に戻してそれを原子炉に送ることを繰り返す。人が操作しなくても緊急時にこれがはたらくとされていた。電気系統を失っても機械式にこれがはたらくとされていた。
だがこのシステムを知悉したものがそこにいなかった。手動で弁を開け閉めした。これを運転した者たちはこう考えた。通常の循環冷却はできていない、非常用復水器で送られている水も高温高圧になってやがて配管や冷却水の入っている復水器が破れ放射能が飛び散るんじゃないか。そういう恐れの中で作業をやっていただろう。
冷却水を通るパイプには高温高圧の水蒸気が通るのだから冷却水の一部は蒸気になって外に逃げる。ところがそれが見られないということで運転を最終的には停止してしまった。実際はその時タンクには容器の65%の水が残っていた。東電は、これがうまく機能したとしても炉心の溶融は避けられなかったと言っている。
これが検証の実態だとすればいかにお粗末なものか。まず復水器がどうして1号機にしかついていなかったのか?それがお飾りではないとしたら、それが電源喪失の場合の最後の命綱になるのだからそれの運転手順について日ごろから周知徹底されていたはずだ。ところが作業員の振る舞いを見るとそういう感じがしない。
そもそも巨大地震で炉に亀裂が入ったとか配管が損傷したといった事実がまったくないと仮定しての話だが、水を水蒸気に、水蒸気を水にと変えながら機械的に炉を冷やす復水器のシステムで、どれほどの時間、冷却に成功できるものか?これがはっきりわかっていたのだろうか?機械式の永久運動ができるなどと言えるはずがない。原子炉の水が失われ高温高圧の水蒸気が配管を通って復水器に流れ込むような状況になれば復水器の中の冷却水も瞬く間に蒸気になって逃げてしまうだろうと私には思える。
燃料棒の交換で炉を停止する際に、非常用復水器の機能実験はすでに何度もなされていてしかるべきだった。非常用復水器が単なるお飾りではないとしたら、そこで稼げる時間の間に電源復旧はこうやってできたはずだということがでてこないといけない。実際はこれにもたついた。使えないようなものをあちこちから持ち込んだだけだ。しかも炉心溶融が始まってからはよく炉が爆発しなかったというような状況が続いた。ただ水を入れようとしても中の圧力で水そのものが入らない。作業員たちはそれに初めての経験としてしか対処できなかった。
事故は一つの事実だけを見てもわからない。さまざまな限界が重なっている。水を入れるにせよ電源を復旧させるにせよ、想定通りにいかなかったということだ。すべてが試行錯誤の世界だ。何よりも自分たちの作業が原子炉にどういう結果をもたらしているかということをモニターできるものがないばかりか目視するために近付くことさえできなくなるという世界なのだ。
原子炉の事故というものがそういうものならば、人の技術などというものがいかにその前で無力なものであるかを素直に認める立場から検証は行われなければならない。たまたま制御の失策で大事故になったがもっとうまくやっていれば大したことにならなかったといった類の総括は未来にもっと大きな禍根を残すだろう。
日米地位協定というのがある。もともと行政協定といったが60年の改定安保の際に地位協定と名称を変更した。これによれば、米国軍人・軍属・その家族がいかに特権を享受しているかわかる。米国から持ち込まれる物品は関税が無税だし所得に対しても所得税は発生しない。
交通事故を起こしても「公務中」であれば日本の地検が起訴することはできない。裁判権は米側にある。実際に軍法会議が開かれるということはない。交通事故の場合はほとんどが懲戒処分を受けるだけだ。その結果、日本人をはねて殺した軍属が5年間の運転禁止だけで済まされている。
今回、地位協定の運用見直しで、米国が刑事訴追しなかった場合、日本の要請に米国が同意すれば日本の地検が起訴できることになった。この運用見直しで1月に事故を起こした軍属を那覇地検が在宅起訴した。
これは一歩前進のように見えるがいかに米国のもつ特権が大きいかを逆に示した事件だったと言える。地位協定そのものに何の変化もない。その運用を今回の事件について見直すと言うだけだ。協定の問題ではなく運用の問題になっている。しかも日本の「要請」と米国の「同意」があって初めてできたことだ。
普天間問題をかかえる米国が「運用見直し」という形で地位協定そのものには手をつけず日本に譲歩したかたちをとった政治的判断にすぎない。民主党政府はこれまで地位協定そのものの見直しを掲げてきた。しかし、米国は地位協定には手をつけず、その運用の見直しでやればいいだろうと日本の要請を押し切ってきた。
日米同盟はまず地位協定から改められなければならない。「公務中」であろうが何だろうが米国軍人・軍属・その家族のおかした基地外の犯罪は日本が優先的にさばく権利をもって当然だ。「公務中」であればなおさらその罪は重いと見なされて当然だ。
日本が米国と結んだ安政条約の不平等を正すのに半世紀を要したが、陸奥宗光にしろ、小村寿太郎にしろ、いまの政治家よりはもっと骨があった。日本に外国の軍事基地があり、彼らは身分的に特権を持ち、思いやり予算で快適な暮らしが与えられている。基地外の日本の道路を走っていて日本人を死なせる事故を起こしても「5年間は運転をするな」といった程度で許される。こんな扱いを今後も続けるつもりか。
京大や筑波大などの合同調査で阿武隈川のセシウムの動きがある程度わかった。中流でセシウム137が一日925億ベクレル、134が一日838億ベクレルだ。河口部で137が291億ベクレル、134が231億ベクレルだ。この差が途中の堰などに沈殿したものだろうと見られる。いずれにせよ一日に阿武隈川から川水で海に流れ出る放射性セシウムは一日当たり500億ベクレルはあるという結果だ。
川のような流れのあるところでは、水中に浮遊する粘土のような微粒子に付着するか水に溶けている状態でセシウムそのものが流れている。これは大気中の気流によって絶えず流されているのと同じだ。そしてそれが日々海に流れ込んでいるという事実がある。一日500億ベクレルという数字をどう見るかはともかく少なからぬ量のセシウムが日々海に流れ込んでいるという事実はどうでもいい問題ではない。
ではどうしてこれほどの量が毎日流れているのか?多くは上流の表土や木の葉に降り積もったセシウムが、雨が降るたびに少しずつ川に流れ込んでいるのだろうと推測できる。この川の水はすべてが海に流れ込むわけではなく、飲料水や農業用水として利用される。人を含めた動物や稲などの植物の体内に入っていく。
しかも川は阿武隈川だけじゃない。久慈川・那珂川・利根川など大きな川がまだたくさんある。現に、利根川から水を引いている東京の金町浄水場で基準値以上のセシウムが検出されたことがあった。
さらに、川のように流れがない湖沼や遊水地などの放射能はどうなっているんだ?という話になる。渡良瀬遊水地・涸沼・霞ヶ浦などはどうなっているんだということになる。
除染などと簡単に言うが、人が安心して暮らすには大気と土壌だけじゃない。河川や湖沼もある。湖沼も河川とつながって飲料水や農業用水にもなっている。また魚などその資源も我々は食している。
霞ケ浦やダム湖の湖底で基準値以上のセシウムが発見されたら底を浚渫してさらうのだろうか?そんな話題にならぬようにみんな黙っているだけだ。
放射能循環という我が国にとって新しいテーマはまだ始まったばかりのような気がする。
大阪都構想には合理性がある。それは逆のことを考えてみればいい。東京都のなかに東京市をつくることなど考えられるだろうか?大阪府と大阪市を一本化しろ、二重行政の解消になる、というのはもっともなことだ。
ただ二重行政の問題は何も大阪だけの問題ではない。千葉県と千葉市、新潟県と新潟市、これらの例でも二重行政問題は指摘されている。新潟の場合は合併して「新潟州」を作ろうという声がすでにある。
大阪都構想には二重行政の解消という見地から合理性があるが、中を東京のように特別区に分割する場合すんなりとはいかないだろう。まず特別区を設けるには地方自治法を改正しないとできない。
仮にこうした問題がクリアーできたとしても、いまの大阪がかかえる問題がすべて解消されるのか?西の首都として官民の多くの組織が集まってくる場所になり今以上の発展をみると言えるのか?大阪の市民のくらしが今以上によくなるのか?そう考えたときわからないと言うしかないだろう。
一都二府と我々は言う。それは東京・京都・大坂を指すのに適当な言葉だ。東京と大阪では歴史と文化の背景がことなる。府を都に変えたとたん人々が集まって大阪が良くなるということが分かっているなら別だが日本の現状はそんなもんでもないだろう。
橋下が知事になって行った大阪府の財政再建も行革も道半ばである。それを辞してまで市長選に出たということは、都構想の実現を優先しているということだろう。これが実現に近づくほど民間の投資も膨らみ大阪の財政もうまくいくという読みなのだろう。人々は彼のそうした行動力を今回の選挙で評価した。
だが、今度の選挙を裏側から眺めればいかに既成政党に対する不信が強いかを物語っているともいえる。この気配を感じ取って国政と地方政治の境界に切り込んでいった橋下の作戦は見事に成功した。
橋下の主張している都構想は何も知事を辞めないとできないものではない。自分が市長にならないとできないといったものでもない。ここに彼のパフォーマンスがある。彼が市長として府と協力して二重行政の解消を実際にやって見せ、大阪の市民の暮らし向きを改善するようなことをやってのけるなら別だが、ただ都構想に向かって暴走するだけなら彼のあげたアドバルーンはやがてしぼみ地に墜ちるだろう。
「知らしむべからず、依らしむべし」というのが権力支配のやり方だろうが、それが顕著にみられたのが今度の原発事故だったであろう。いち早く知らせるべき情報を住民に知らせなかった。これは故意か過失かわからないように行われるから始末が悪い。
事故後の放射線量の計測を行っていた気象研究所の測定業務に予算がつかなかったりした。継続して変化をみるといった研究では何十年と続けていた研究をストップしてしまうことは、そのデータを活用にして研究をしていた人々にとって致命的な損失になる。
計測と公表を支配している国の機関は、「知らせて住民がパニックに陥るようなことは知らせるな」という不文律に従っている。だから知らせようとする研究者に圧力をかけて止めさせても何の痛痒も感じない。
たとえば安定ヨウ素剤が現地の役所には備蓄されていたのにそれが住民に行き渡らなかったのはどうしてか?連絡の行き違いなどと言っているが政府が積極的にそれをやることを抑えたのだろう。甲状腺がんが起きてもおかしくないだけの放射線が出ているんだと住民が知ることを恐れたのだ。私は今のところそう思っている。
この前新聞を見ていたら、港区で、来年4月に区内で2か所のモニタリングポストを設置して常時、空間放射線量を測定しそれをリアルタイムでホームページに公開すると出ていた。こんなことが今ごろ新聞種になる。東京の場合は新宿に都が監理するモニタリングポストがあるだけだ。それが東京のデータとして使われてきた。区が独自にモニタリングポストを設けることすら今までなかったのである。
目黒区は測定器の貸し出しをやっていたがそれだって2・3台だ。それをまた2・3台増やす、高圧洗浄機も5台も新たに購入する。こういうことが新聞記事になるほどだからいかに対策が遅れているか言うまでもない。
私の住む東京北区は貸出すら行っていない。依頼があった場合だけ区の職員が出かけて測定する。高い放射線量があると見なせば「専門業者」に精密な測定を依頼する。その程度だ。都内全域でも推して知るべしという状況だから、意識の高い都民が自分で購入した線量測定器を使って測定している。その結果、ニュースにもなった各地のホットスポットが発見されたのだ。
測定器は数万から数十万する。しかも誤差が多い。日本はこの分野で遅れている。それも安全神話のせいだが。しかも核種でちがう。海外のものが多い。こういう事情で使いこなすことが難しい。廉価で精度の高いハンディーなものを至急日本のメーカーが開発して普及させるべく政府は動くべきだった。自治体もまたそういう要求を政府に出すべきだった。自治体は必要度に応じて一家に一台は備えられるようにすべきだった。
知るべきことが知らされないとしたら自ら知るようにするしかない。それがきわめて困難な社会であれば、それはいい社会ではない。国や自治体はそういう道が容易になるような施策を行うべきだ。
もっと言えば、心配であれば、自分の食べる食品や自分が出す糞尿の中にどれほど放射線が含有するか、費用や時間をかけずとも容易にそれを測定できるような世の中にしないといけない。